ポッター教育研究所

教育・子育て・人間の能力に興味があります。twitterよりもdeepな内容をdeepな仲間とシェアするためのブログ。

僕の仕事人生における目標・ビジョン

教師になってからここまで、毎年目の前の課題にがむしゃらにぶつかってきた。

 

とにもかくにも、小学校教師としての最低限のスキルを万遍なく身につけることに必死という感じであった。

 

色々感じながら進みつつも、これという具体的な目標やビジョンは定めていなかった。

 

経験を積んでいく中で、自然と示される道や目指したくなる道が出てくるだろうとも何となく思っていた。

 

 

そしてちょうどここ最近、そろそろ今のところの自分の仕事人生における明確な目標を考えてみようと思うタイミングがやってきた。

 

特に有益な情報も無いが、ブログまでわざわざ読んでくださっている皆様とは考えたことを共有しておきたくてここに書くことにした。

 

ではいきます。

 

 

①外国語か否か

僕が自分の仕事人生を考える上で、まず分かれ道になるのはここである。

 

英語とは腐れ縁で、詳しく話すと高校入試のことから話さないといけなくなるのだが、とにかく僕は、専門としてはずっと英語・外国語教育を勉強してきた人生だった。

 

外国語関係のことが仕事人生の目標になるか、、。

 

 

考えた結果、答えは否であった。

 

指標にしたのは、

「そのことについてなら、いくらでも考えられるか」。

 

僕の場合、自分の興味関心を端的に表すのはここかなと思ったからである。

 

外国語については、もちろん関心もあるし、ある程度自分の武器になるとも思っている。

さらに今は付加価値もある。

 

でも、いくらでも考えていられるかと言われると、ちょっと苦しい。

 

今授業を考える時も、苦しみながら作り出している感も結構ある。

 

そうなると、外国語は仕事人生における目標というよりは、自分にとっての特別な武器という立ち位置だなというのがしっくりきた。

 

もちろん、これからの仕事人生でも、何らかの形でずっと携わっていく可能性はあるなとも思う。

 

 

 

②じゃあ何か

じゃあ何だろうということである。

 

考えた結果、やっぱり僕が一番興味関心があるのは、特定の教科というよりは「教育全体」である。

 

人が個性や能力を発揮していくのを見るのが一番楽しい。

そしてそれをサポートするためにあれこれ考えるのが一番楽しい。

永遠に考えられるし、語り合える。

 

そしてこんなに楽しくて価値のあることなのに、今の日本では教育が軽視されているというのが僕の大きな課題意識である。

 

日本の、いや極論を言うと、世界中でより良い教育がなされて、世界中のみんなが自分の個性や能力をきちんと発揮することができるなら、本望の究極の形である。

 

その理想とはかけ離れたこの現状で自分にできることと言えば、とにかくより良い教育実践を僕自身がすることで、人の個性や能力を実際に発揮させていくと共に、それによって教育の楽しさや価値をみんなに感じてもらうということである。

 

そのためのフィールド・切り口はたくさんあると思うが、自分の価値観的には、どんな人でもアクセスできるという意味で、公教育・公立学校は一番納得の場である。

 

仕事を選ぶ時はここまでは考えていなかったので、ある意味偶然公立小学校の教師になっていたのはラッキーだったなと感じた。笑

 

 

ということで、僕の仕事人生における目標・ビジョンは、「教育の価値を高めること」。

 

もう少し具体的には、「公教育の価値を高めること」に決定した。

 

 

 

③進路としては

目標・ビジョンが定まったところで、次はどういった立場からそこにアプローチしていくことを目指すかである。

 

学級担任をした経験的には、直接40人程の子ども達や保護者の方と1年間密接に関わることで、上記の目標に迫っていけたこともたくさんあったなと感じるし、その時にはすごく楽しかった。

 

しかし、数が少ない。

 

仕事人生を40年としたら、40人×40クラスで1600人としか関われないことになる。

 

人によって感じ方は色々だと思うが、僕的には自分の仕事人生全体をかけて1600人は少なすぎる。

 

やはりどこかで、学級担任より子どもとの距離は若干広がったとしても、より多くの人に直接的間接的に関われる立場には上がっていきたいと感じた。

 

そうなると、具体的な進路としては、管理職か、教育行政か、教育研究者か、、。

 

ここからについては、自分が周りからどう評価されるかが大きく関わってくるので自分で選べるわけでもないし、実際にどんな仕事がどんなものなのかもちゃんと分かっていない。

 

でも、感覚的にはプレイヤーではありたいなと感じた。

 

お願い・啓発して回るよりは、自分でやりたい。

 

そうなると、今思いつく限りでは、教育行政や教育研究者よりは、管理職の方がプレイヤーの色味が濃いのかな、、?

 

ここについては、具体的にはまだよく分からないが、とにかくより多くの人に、できるだけプレイヤー要素のある立場で関わっていきたいというところは変わらないと思う。

 

 

 

④おわりに

以上。

徒然日記を読んでいただいてありがとうございました。

 

この年末年始はこんな感じで徒然日記をいくつか書いてみようと思います。

 

また、みなさんの仕事や人生における目標みたいなものがあればぜひ教えてください。大きいのでも小さいのでも。

 

僕はそういうのに興味があります。笑

公立教育の持ち味

前回の記事で、

「公立教育の価値を高める」

ということが僕のライフワークの一つになったということを書いた。

 

では今の時点で、僕は公立教育のことをどう捉えているか。

 

民間に比べてお金がかからないが、その分質は落ちてしかるべきものと思っているかというと、そうではない。

 

価値のないものに価値を与えようとしているのではなく、元々価値があるものの価値を広めようとしているのだ。

 

今回は、公立教育にどんな価値があると思っているのか・どんな可能性があると思っているのかを紹介する。

 

 

①最大の価値:多様性

まず、公立教育のもつ最大の価値についてである。

 

人は1人では生きていけない。

 

仕事でもプライベートでも色々な人と関わりながら生きていく。

 

人間関係は、人生を何よりも豊かにする力を持つ反面、人生に大きなダメージを与える可能性ももつ物である。

 

特に大人になって自立してから人間関係で大きくつまずかないスキルを、大人になるまでに身につけておくことがものすごく重要なのである。

 

すごく上手じゃなくてもいいが、大ダメージを受けないスキルやタフさは僕からしたら必須能力である。

 

その能力はどうやったら身につくのか。

 

経験と場数しかない。

 

教師にも保護者にも見守られ、失敗しても大抵のことは取り返しがつく子どものうちに、できるだけ色々な人と関わって経験値を上げておくことには、何物にも変えられない価値がある。

 

地域によって色味の偏りはあるとはいえ、たまたまその地域に住んでいる色々な人が集まってくる公立小中学校は、最も効率よくそんな経験を積める場である。

 

授業がどうとか教師がどうとか言う以前に、行くだけで大きな価値があるのである。

 

僕達教師としては、楽しい時間を過ごしながらその経験を積んでいけるように、少なくとも、大きすぎる心のダメージを受けたり学校に来れなくなったりすることが無いように場をマネジメントすることが最大の仕事である。

 

今の学校現場では、いかに上手く集団として子ども達を管理できるかどうかが力量みたいになっている節があるが、僕は教師や学校が原因の不登校を1人も出さないことが何よりも重要だと思って仕事をしてきた。

 

1人もである。

 

公立教育の最大の価値がここにあるからである。

 

 

 

②公立の持つ可能性

次に、最近気づき始めた公立教育の持つ可能性についてである。

 

公立というと、お金がなくて、大胆なこともしにくいという印象があるかもしれない。

 

僕もそう思っていた。

 

校舎など目に見える設備の綺麗さを比べると、私立にその辺りはかなわないように見える。

 

しかし、そうでもないかもしれないと最近思い始めたのだ。

 

公立は税金で賄われるという特性上、無駄遣いは許されない。

 

そのため、とりあえず各校に配られる基本の予算はギリギリ設定である。

 

しかし、意味ある活動には結構あれこれプラスでお金が降りてくるのだ。

 

今回のコロナ関係で臨時でバンバン降りてくるお金も正直すごい額だった。

 

とにもかくにも、市民に説明がつく意味があるかどうかが大切なのである。

 

むしろ私立に比べて儲ける必要は無いので、意味ある活動と認めてもらえればそれだけで降りてくるお金も多い。

 

そのためにはこちらの説明や書類の提出が必要になるが、それは当然のことである。

 

ちゃんと調べてないから知らないだけで、もしくは面倒くさがって申請していないだけで、使えるお金は結構ありそうだと最近思っている。

 

 

 

また、動きの大胆さについても見方が変わってきた。

 

今年度、外国語の授業の一環で、姉妹都市の小学校とオンライン交流をすることになった。

 

この案を思いついたときに、とりあえず市教委に連絡したのだが、すぐに市役所の担当の課に繋いでくれて、その担当の課の方もすぐに相手先を見つけてきてくれた。

 

そのスピード感と手厚いサポートに驚いた。

 

もちろん関わってくださっている方々の個の力もあるのだが、組織の力を感じたのである。

 

そもそも姉妹都市という制度自体が政治的なコネクション。

 

さらに市内で以前に似た取り組みが行われており、その蓄積があった。

 

それらの要素が生んだこのスピード感。

 

さらに、意味あることには損得をいとわずサポートしてくれる体質。

 

自力や私立でこれをしようと思ったらきっと大変なことである。

 

この経験で、公立の新たなメリットを見た。

 

県や市の政治的な力を使うことができ、さらに意味があるかだけに拘って儲けを気にせず動くことができる。

 

あれこれ調べてみて、どんどん管理職や行政に相談してみたら、思っているより大胆なことを、思っているより簡単にできるかもしれないなと今思っている。

 

公立教育の価値を高める

僕の人生、このまま教師という仕事を続けていいものか。

 

 

教師になって数年働いた頃に考えたことである。

 

何となく良いとは思っていたものの、はっきりとした目的をもって教師になったわけではなく、さらにあの劣悪な環境・待遇が待っていたわけなので、どこかでこう感じるのはある意味当然のことであった。

 

 

続けるにしても辞めるにしても人生をかけた選択。

 

答えを出すためには、

「自分はどんな時に幸せなのか」

という根本的なことを一度じっくりと考える必要があると感じた。

 

 

 

僕にとって幸せな時間・・・

 

 

 

まず家族や友達と楽しく過ごす時間は幸せだが、それは完全にプライベートで達成できることである。

 

問題は次である。

 

次の「幸せな時間」が教師という仕事に大きく関わっているなら、僕にとって幸せなことだと思ったのだ。

 

 

 

とにもかくにもお金持ちになってすごく良い物を身につけたいとは思わない。

 

とにもかくにも世界の色んなところに行ってみたいとも思わない。

 

とにもかくにものんびり過ごしたいとも思わない。

 

 

僕にとって幸せな時間は

「人のすごい能力」に触れている時

だと判明した。

 

 

歌がめちゃくちゃ上手い人の歌を聞いている時。

 

絵がめちゃくちゃ上手い人の絵を見ている時。

 

めちゃくちゃ賢い人・おもしろい人の話を聞いている時。

 

 

そんな時、僕はすごくワクワクするし、まさに幸せである。

 

 

となると、教師という仕事がその幸せな時間に大きく関わっているかどうか。

 

 

 

答えはYes。

 

 

 

まさに、人の能力を発揮させるために働く仕事である。

 

 

しかし、人の能力を発揮させるための仕事は他にもたくさんある。

 

塾をはじめ、各種習い事だってそうである。相談機関のような物だってそうである。

 

 

もう一歩踏み込んで、どのように人の能力を発揮させることに関わっていきたいか。

 

 

そう考えた時、僕にとって大切なのは、多様性・数だということが分かった。

 

別にどんな能力かにはこだわらない。

ただ、1人でも多くの人の能力をちゃんと発揮させたい。

 

 

特定の能力を伸ばすことにフォーカスすることや、一部の人を対象とすること(例えばお金がある人しか利用できない機関など)は、僕が望むところではない。

 

 

そうなると、教師という仕事は当てはまっているか。

 

 

 

答えはYes。

 

 

 

学校、とくに公立学校はまさにぴったりである。

 

能力を発揮するための環境が整っている人は、そちらに任せておいてもいい。

 

 

多様性・数が大切なら、特に僕が目を向けるべきは、環境が悪いために、そのまま放っておけば発揮されずにつぶれてしまうかもしれない能力を拾い上げることである。

 

 

ここまでくると、教師という仕事を続けることに納得できた。

 

環境や待遇に不満はあるが、もっと高い次元で自分の幸せとマッチしているのだから、幸せなことである。

 

むしろ何となく決めたのによくここまでマッチしてたなという感じである。

 

 

 

しかし、公立教師であっても、直接関わることができる子どもの数は知れている。

 

 

学級担任として1年間みっちり40人に関わったとしても、40年かけてやっと1600人である。

 

しかもみっちり関われるのはたった1年間。

 

 

大きな夢を見るなら、日本社会全体がもっと教育に価値をおき、よりたくさんの能力がちゃんと発揮されるような環境が広がっていけば、より幸せである。

 

今の日本社会は教育を軽視し過ぎている。

 

からしたら目先・小手先の利益のために、成果が出るのに時間がかかる教育が後回しにされているという感じである。

 

その成果というのはすごく貴重で魅力的な物なのに!

 

でも、その価値に僕が気づいたのであれば、それを広めていくのが僕の使命ではないか。

 

 

 

今は1人の公立小学校の教師として、目の前の子どもや保護者にとって価値ある教育を提供できるように全力を尽くす。

 

そしてその先に、日本社会全体の教育の価値・特に公立教育の価値が高まっていくことを目指す。

 

どうすればそこに近づくことができるのか。

 

それを考えながら働くことが、当面の僕のやるべきことだと思うし、そう思うと、納得して誇りをもって今は教師という仕事ができている。

男性教員である僕が育休を取った理由

前回の投稿で書いたように、7月に第二子が生まれ、僕は1ヶ月半仕事を休んだ。

 

これまでの教員生活の中で、職場でそういう動きをしている先輩に出会ってきたのかというと、実際には1人も見たことがなかった。

 

今回はせっかくなので、そんな中でどうして育休を取ってみようと思ったのか、さらに意識したことは何かを紹介する。

 

 

 

まず育休を取ろうと思った理由は大きく3つ。

①自分自身がこの一大事にしっかり家族と関わりたいから

②妻や子ども達にとっても、僕が育休を取るということは意味があると思ったから

③これからの日本社会(特に教育界)を動かすため

 

 

それでは一つずつ。

 

①自分自身がこの一大事にしっかり家族と関わりたいから

まずはもちろんこれである。

 

子どもが生まれるなんて人生の中のうれしいうれしいビッグニュースである。

 

そんな貴重で、しかも一瞬のこの時間を、僕自身がしっかりと家族と過ごしたいというのが1番である。

 

新生児をじっくりと抱っこして見る。見まくる。

2歳の長男としっかり遊ぶ。

 

仕事がある以上、こんなに集中してただただ我が子と関われる時間なんてなかなか無い。

 

ここに人生の大きな価値を置く僕にとってそれだけですごく贅沢な時間である。

 

実際、期待通りの充実した時間を過ごすことができた。

 

 

②妻や子ども達にとっても、僕が育休を取るということは意味があると思ったから

まずは妻とのこと。

 

出産というスペシャル大仕事をやってのけて、さらにまだ満身創痍という時に、夫が少しでも「特別な」協力をする姿勢を見せるということに意味があると思ったのはもちろん、普段のことにも関わっていくと思ったのである。

 

我が家では、長男出産以降、妻が日中の家事育児を担当してくれている。

 

一応やっていることは把握しているし、イメージもできる。

 

ただ、実際にやってみないと分からない部分もあると思っていた。

 

家という閉鎖的な空間での仕事、自分の仕事が子どもの人間形成や体調や命に直結するというプレッシャー等。

 

たった1ヶ月半で、しかも両両親のサポートもあるので、普段の妻の仕事とは少し違う部分もあるけど、それに似た体験を僕もするということは、妻にとっても意味があることなんじゃないかということである。

 

実際、仕事をしながらセカンドの立場で子どもと関わっている普段の時と比べて、感じ方が違うなと思うこともあった(具体的には、イラつきやすくなったり、子どもにより完璧を求めがちになったり)。

 

これは、今後の夫婦関係にも意味があるんじゃないかと思う。

 

 

次に子ども達とのこと。

 

出産直後の「今」のことを考えても意味があることは間違いない。

 

生まれたばかりの次男にとっては完全に物理的であるが、大人の手が増えることで細かくケアができる。

 

2歳の長男にとっては、自分がオンリーワンでなくなるという「大事件」が起きるわけで、このメンタル危機に親が自分をガッチリ見てくれるかどうかは大きいことだと思う。

 

 

ただし、子ども達は0歳と2歳。

この時間のことはいずれ忘れてしまうだろう。

 

でも、「将来」のことを考えても意味があると思うのだ。

 

後に話を聞いて誇りに思ってくれたら嬉しいし、そういうことに価値があるのかと感じてくれるかもしれない。

 

もしかしたら子ども達が親になった時の行動に影響を与えるかもしれない。

 

教育・子育てに大きな興味と価値を置く僕としては、この行動自体が、今の、将来の息子達への価値観を伝えるメッセージになる。

 

 

③これからの日本社会(特に教育界)を動かすため

こう書くと大袈裟だが、一応本気である。笑

 

今日本社会では、イクメンという言葉が広がり、父親の育児参加を促すための様々なシステムも整備されていっている(そもそも父親が家事育児にまともに参加しなくて当然という今までの風潮がナンセンスだし意味不明だとは思うのだが、過去のことは言っても仕方ないので今は置いておく)。

 

しかし、システムがかなり整備されている割には稼働率は低い。

 

何事もそうだと思うが、制度の壁を壊した後にはメンタルの壁を壊さなければならない。

 

気持ちは僕もすごく分かる。

 

「誰もやってないし変に目立ちたくない、、。」

「職場にイレギュラーな迷惑をかけたくない、、。」

 

といったところだろう。

 

実際に僕自身、7年間働いてきたが、育休を取っている男性教員を一度も見たことがなかった。

 

それでもなぜ自分が思い切って動いてみようと思えたか。

 

雰囲気を動かしていくには、誰かが動いて前例を作っていくしかないと思ったからである。

 

これも日本人の性だなと思うが、誰かがやってたらやるのである。

 

そしてそれが当たり前になっていったら、それを念頭に置いたシステムも作られていく。

 

正直、今のままの小学校現場で女性教員に続いて男性教員も育休をガンガン取り出すと、苦しい状況が生まれることも多いと思う。

 

しかし、それがおかしいのである。

 

どうしてそんなおかしい状況が放置されているかというと、みんなが気を遣って育休を取らないから、そのための対策を取る必要感も発生していないからである。

 

今回僕が休みをもらったことでも、負担をかけてしまった人達がいるだろう。

 

でもそんな例を積み重ねることで、やっと真剣にその対策を考えていくと思うのである。

 

価値あることを進めるためには、そのために多少の労力は払わないといけない。

 

また、僕たちは教師である。

教育に関係のある分野では、他の業界を引っ張っていくべき存在ではないのか。

 

そんなことを考えている教師がどれくらいいるのかは分からないが、少なくとも僕にはそんなプライドがある。

 

また、教師の姿そのものが、子ども達にとって教材となる。

 

第3の大人である教師が、当たり前のように育休を取っている姿を見たら、子ども達にとってそれが当たり前になっていくと思う。

 

今回僕は、あえて子ども達に休む理由を説明した。

 

家族や職場の大人だけでなく、何百人の子どもの中にも小さな種をまいたつもりである。

 

教師だからこそ、子ども達にそういった姿を見せていかないといけないと思うし、だからこそ、僕は教育界から変えていきたいのである。

 

 

 

意識したこと

もちろん①や②の理由が優先順位は上である。

 

そしてそこについては、思いっきり楽しんで、この1ヶ月半を価値ある時間にしていこうという気持ちだけである。

 

ただ、③については、意識しておかないといけないことがあるなと思っていた。

 

僕は、自分が育休を取るだけでなく、男性の育児参加への意識を高め、育休取得を広めたいのである。

 

 

まず職場の同僚に対して。

 

僕の今回の育休取得について、同僚はみんな快く受け入れてくれてありがたかったが、心の底でどう思っていたのかは分からない。

 

まだまだ目新しい行動なので尚更である。

 

その評価は、僕の仕事の評価にも左右されると思うのだ。

 

例えば異動してきた去年1年間の僕の仕事ぶり、育休前後の動きなど。

 

僕自身がみんなから評価されていなかったら、育休取得は

「仕事ができない人がやってる変な動き」

「だから育休なんて取られると困るだけ」

とみなされる可能性があるし、

 

僕自身がみんなから評価されていれば、

「あの人がやってるならきっと価値あること」

とみなされる可能性がある。

 

 

子ども達にとっても同様。

 

僕が尊敬できる教師なら、僕の動きは価値あるものとして子ども達に入りやすいだろうし、逆もまた然りである。

 

 

自意識過剰かもしれないが、新しいことをする以上、それくらいのプレッシャーは感じていた。

 

そしてそれはこれからも続く。

 

「珍しい」ことでも、あの先生がやっていることなら価値あることなんだろうと周りの人に思ってもらえるように、「普段の」仕事を磨いておく。

男性教員が育休を取るための流れ

この度7月に第二子が生まれ、約1ヶ月半、仕事の休みを取らせていただいた。

 

新生児もじっくりと見れたし、家事を全てやりながら2歳の長男の相手をするということも普段はできないことで、面白忙しい貴重な経験をさせていただいた。

 

 

今、日本社会全体で男性が育休を取ることを広めようという動きは広がっていて、制度面は整えられつつある。

 

でも、

「手続きがややこしそう、、」

とか

「職場の人に迷惑をかけそう、、」

などメンタル面のハードルはまだまだ高いように思う。

 

 

そこで今回は、僕が休暇を取るためにやったことを時系列で紹介して、参考にしてもらえればと思う。

 

 

 

①家族両親と相談(妊娠初期)

僕達は今回、コロナのこともあるし、長男のことを考えても、里帰りは無しでいこうということになった。

 

この時点ではまだざっくりとだが、お互いの両親にも大体どれくらい協力してもらうことが可能か等の相談をした。

 

その上で、どれくらいの期間の休暇を取りにいくかを決定。僕達の場合は1ヶ月取ろうということになった。

 

②校長に報告(校内人事をそろそろ考え始めるかなという頃)

まずは校長に報告。

これについては妊娠のタイミングにもよるが、僕は可能だったので、校内人事を考え始めるかなという頃に伝えた。

 

僕の場合は

「来年度の夏に1ヶ月の育児休暇を取らせていただきたいです。その上で判断していただいて、僕を配置してください。」

と伝えた。

 

今年度は外国語専科が第一希望だったが、学級担任をお願いされれば、引き受けようと思っていた。

 

それぞれ職員に負担をかけてしまうことはあるが、そこの判断は校長に任せるので早めに。

 

③自分の仕事の見通しを立てる(年度当初)

これもタイミングによるが、僕の場合は出産予定が夏だったので、校内人事が決まった春休み・1学期序盤に、1学期・夏休みの自分の仕事の見通しを立てて、早め早めに回転させた。

 

この時点では、とにかく自分の中の準備を進めた。

 

④事務・専科団(学級担任なら学年団)に報告(安定期に入った頃)

この時事務の先生と相談し、僕は「育児休暇」を取るのではなく「特別休暇」と「年休」をつないで休むことを決定。

 

⑤両方の両親と具体的な相談(1、2ヶ月前)

今回は第二子だったので、出産時に長男をどうするかということを含めて具体的にシュミレーションしながら、出産後もどの日にどういった形でサポートしてもらえるかをそれぞれの両親に相談。

 

⑥家の中のことを準備(1、2ヶ月前)

我が家は普段妻が日中の家事育児をしてくれていたので、引き継ぎ事項の確認、揃えておかないといけない道具の調達等をこの頃からし始めた。

 

⑦仕事の引き継ぎ確認(1ヶ月前)

自分が休む間に誰かにやってもらわないといけない仕事を確認してお願い。

 

⑧諸帳簿の作成(出産直後)

これについては出産日が決定しないと動けない。

 

今回は出産が予定より1週間早く、まだ仕事の方も完全に片付けられていなかったので、2日程僕の母親に長男を見てもらいながら、仕事の片付けと書類作成。

 

この時に、具体的に約1ヶ月半休みを取ることを決定。

 

⑨実際に休み開始(出産3日後)

 

 

 

まとめ

だいたいこういう感じである。

 

出産日は最後まで分からないというところがハラハラするが、僕なりに公私共にできる限り前もって準備を進めた。

 

特に職場で仕事を代わってもらう人には思いつく限りのお膳立てをした。

 

それでも迷惑をかけたことはあったと思うが、みんな快く引く受けてくれて、先日復帰した時も笑顔でむかえてくれてありがたかった。

 

 

ちなみに僕の場合「特別休暇」と「年休」をつないで休んだところが一つのポイントであった。

 

考え方は人それぞれだしタイミングにもよるが、教師の「出産・育児のための特別休暇」はかなり整えられていることは知っておいた方がいい。

 

僕の自治体の場合、

出産にかかる特別休暇が3日。

育児にかかる特別休暇が5日。

さらに僕はタイミング的に夏季休暇5日もあったので、使った年休は13日。

まだ22日残っている。笑

 

それでも、今後自分以外の家族に体調不良者が出た場合には、看護のための特別休暇がさらに20日程用意されている。

 

つまり、年休を使う必要があるのは、自分の体調不良と家事都合だけということである。

 

絶対に22日も使わない。笑

 

 

僕も今回事務の先生に相談に乗ってもらって初めて知ったこともたくさんあった。

これから自分や夫が育休を取る可能性がある人は、まずはこの「すごすぎる権利達」を確認してみてほしい。

洋画を教材化する方法

小学校での英語学習に必然性をもたせるのはかなり厳しい。

 

これについては考えに考えたのだが、残念ながら今のところ

「小学生が小学校で学んだ英語を、小学生の時点で世の中で体感できる瞬間はほぼ無い」

という結論に至っている。

 

これは残念なことなのだが、残念で終わっている場合でもない。

 

どうしようか考えた結果、

「生の英語を授業の中で体験させてやる機会をつくる」

ことが、せめて「僕に」できることだなというところに落ち着いた。

 

その活動の一つとして、洋画を教材にしてみようと考えたわけである。

 

今回は「ハリーポッター と賢者の石」を教材化した流れと、授業してみた感想を紹介する。

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①映画を見てひたすら使えそうなシーンを探す

まずは使えるシーン探しである。

 

ハリーポッターと賢者の石の場合、使えるシーンは3つであった。

 

これは意外にも少なくて驚いた。

 

小学5.6年生でも分かる英語をいくつか含むまとまった会話となると、意外とこんなものだったのである。

 

口が見えた方がいいかと思ってハリーポッターを選んだのだが、もっと簡単な会話がたくさん使われていそうなアニメでも良かったかなと今は思う。

 

シーンを選ぶ時のポイントは、とにかく子ども達が分かるということである。

 

最悪何回か聞けば分かるというレベルでもいいが、できたら一発である程度分かるのがいい。

 

小学校での勉強を頑張れば、英語の映画も聞き取れるようになるんだ!

という体験をしてほしいのである。

 

 

 

②選んだシーンを切り取る

選んだシーンだけをどうやって切り取るか考えたが、いいアイデアが思いつかなかったので、

そのシーンをテレビで流してその画面をビデオに撮る

という原始的な方法で選んだシーンを切り取った。

 

授業内で使う分には、著作権的にはオッケーなのだが、不細工なのでいいアイデアがある方は教えてほしい(DVDの映像を切り取ってデータにする方法)。

 

 

 

③ワークシートづくり

ここから、そのシーンを使ってどのように教材化するかを考えた。

 

ただ見て聞くだけでは面白くない。

 

今回は、日本語の原稿にいくつかの穴抜きを入れたワークシートを作った。

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④やってみる

・まずは主旨&登場人物&シーンの説明。

ハリーポッターを知らない子も場面をイメージできるようにする。

 

・みんなとりあえず見てみたいだろうから、1回流して見てみる。

 

・穴抜きのところのセリフに注目して見てみる。

 

・分かった気がする子に聞いてみる。

 

・小分けにして見てみる。

 

・全体を通して見る。

 

シーンにもよるが、大体こんな感じである。

一つのシーンを何回も見た。

はじめは全く分からなかったところも、答えを知った上で見ると結構分かる。

 

 

 

⑤感想

5.6年生でやったのだが、やはり語彙が少ないので、僕達大人と比べて文脈判断も難しく、難易度は高かった。

 

3つのシーンを選んだが、5年生は難しかった1つをカットして2つにした。

 

ただ、簡単に分かる言葉もあったし、分かった上で聞くとよく聞こえたみたいである。

 

教科書のリスニングは分かりやすいようにゆっくりはっきり話してくれるが、生の会話はすごく早いしリンキングもある。

 

これが本物かと感じる体験にもなったようである。

 

けっこう手間もかかったし、どうだったかなーと思ったが、子ども達の振り返りには

 

ハリーポッター を英語で見れてうれしかった。」

「すごく早かったけど、だんだん分かった。」

「もっと英語が上手くなりたいと思った。」

 

などポジティブな感想がたくさん書いてあったので、やって良かったなと思うし、また作ろうと思う。

 

やるなら何がいいだろうか。

 

トイストーリーとかいいかなー。

 

外国語専科として見えた光

前回の記事では、外国語専科として1学期間働いて、悩んだことをまとめた。

 

悩むことが多い1学期であったが、今後に向けて希望が持てるなと感じたこと・分かったこともいくつかあった。

 

今回はそちらを紹介しようと思う。

 

 

 

①子ども達は案外友達との英語でのコミュニケーションを楽しんでいる

これは僕にとって、この1学期で1番大きな(意外な)収穫であった。

 

僕はなまじっか英語教育について勉強してきたものだから、妙なところで考え過ぎてしまうところがあって、1番引っかかっているのが必然性についてである。

 

小学校英語について、端的に言うと

「クラスの友達とのコミュニケーションが大切と言うけれど、それなら日本語でやればよくない?英語教育を無理矢理導入するための言いがかりじゃない?」

 

と思っているのである。

 

そして子ども達も、クラスの友達(日本語でのやり取りが可能な相手)と英語でやり取りすることに対して、胡散臭さや必要感の無さをガンガンに感じるのではないかと思っていた。

 

しかし、予想に反して、子ども達はけっこう友達との英語でのコミュニケーションを楽しんでいたのである。

 

実際に見た感じでも楽しそうな瞬間がたくさんあったし、振り返りにも

「〜さんの好きなものが分かってうれしかった。」

「普段喋らない人と話せて良かった。」

というような記述がたくさんあった。

 

 

これは嬉しい誤算であった。

 

 

もちろん僕自身の必然性へのこだわりが消えることは無いが、それでも今のところ授業の中心となる「クラスの友達とのコミュニケーション」を子ども達が楽しいと感じるのかどうかは、授業者としては大きいことである。

 

何とか「話したくなる」「聞きたくなる」場の設定を作ることができたら、子ども達の楽しい時間を増やせるのだと感じた。

 

 

 

NHK for schoolが有能

他力本願系で申し訳ないが、本当なのである。

 

これまでNHK for schoolの外国語の番組を使ったことは無かったのだが、他教科と同じく、かなり有能であった。

 

10分の有能な教材があるという安心感を教師側がもらえることに加えて、実際に外国人と英語でやり取りしている場面や外国の様子を映像で見るということは、授業の中でなかなか体験させてやれない部分である。

 

それを、各学年の学習内容に合わせて10分でいい感じにまとめてくれているNHKには改めて感謝した1学期であった。

 

 

 

③発達段階とフィットする活動が少し掴めた

今年度は幸運なことに、3〜6年生すべての学年で授業をさせてもらえている。

 

そのことによって、一度に各学年での反応を見ることができている。

 

 

新指導要領の改訂に際して、改めて

「言語活動」の重要性がすごく強調された。

 

「本当に思っていること・考えていること」を伝え合うのが大切ということである。

 

これについては、本当にどの学年でもその威力を感じた。

 

自分の本当の思いを伝え、相手の本当の思いを聞くというのはやはり魅力的な活動ということである。

 

これは序盤で分かったので、機械的or自分の本当の思いが乗らない反復練習はできるだけ少なくして、大きなアクティビティはもちろん、練習すらも言語活動になるように考えた。

 

そこに、良い感じにゲーム性を加えることができたら子ども達はすごくノってきた(相手からYes, I do.がもらえたら座りましょう。とか共通点を見つけることができたら座りましょう。とか)。

 

 

学年によって差が出たのは、ゲームの形である。

 

自分の本当の思いを伝える要素を入れることは前提として、それでもゲーム内のルールを楽しむ系(ビンゴとか好きな物ランキング当てとか)のゲームは、やはり中学年向けであった。

 

中学年ですごく盛り上がったものだから高学年でもやってみたら驚くほど盛り上がらなくて冷や汗をかいた。笑

 

高学年は、ゲームの中のルールというよりは英語そのもの、外国語学習そのものの魅力に迫るようなゲームで盛り上がった(全員起立して質問に答えられた人の縦列か横列の人が座れるゲームとかお題を見ていない一人にクラス全員で英語だけでヒントを出して当ててもらうゲームとか)。

 

もちろん個人差はあるだろうが、もう今後は中学年と高学年でスパッと分けようかなと思っている。

 

 

あとそれに関わってくることでもあるが、対話をさせる相手の作り方も違いが出た。

 

ペアはどちらでも多用するが、自由に教室を動き回ってペアを見つけるスタイルは中学年向き。列をずらして機械的にペアを作るスタイルは高学年向きである。

 

4年生は交ぜながらやっていこうかなという感じである。

 

 

こんな感じで、発達段階による違いや共通点を掴めたのは収穫であった。

 

 

 

④単元計画が肝心

これは他教科でも同じだし分かっていたことであったが、改めて感じたことである。

 

というのも、Unitでスパッと分かれているLet's Tryは考えやすかったのだが、Crown Jrの方はLessonというものは存在しつつも、1学期を大単元とするというというような特殊な構成になっていた。

 

その扱いをどうするかに苦慮したわけだが、やはり教師側がそこで迷子になっていると授業にもキレがなくなった。

 

実際にどういう形で料理するかはまたこれから考えないといけないのだが、やはり教師側が学期全体、Lessonごとのゴールやイメージを明確に持っておくことが良い授業の肝になる。

 

Crown Jrは考えにくいのだが、それでも何とか自分なりの構成を作り上げて2学期3学期を迎えることが大切だと感じた。

 

 

 

そんな感じで、基本悩みながら、少し掴んだ手応えもあった1学期。

 

その全てを生かして夏休みに作戦を練ろうと思う。