公立教育の持ち味
前回の記事で、
「公立教育の価値を高める」
ということが僕のライフワークの一つになったということを書いた。
では今の時点で、僕は公立教育のことをどう捉えているか。
民間に比べてお金がかからないが、その分質は落ちてしかるべきものと思っているかというと、そうではない。
価値のないものに価値を与えようとしているのではなく、元々価値があるものの価値を広めようとしているのだ。
今回は、公立教育にどんな価値があると思っているのか・どんな可能性があると思っているのかを紹介する。
①最大の価値:多様性
まず、公立教育のもつ最大の価値についてである。
人は1人では生きていけない。
仕事でもプライベートでも色々な人と関わりながら生きていく。
人間関係は、人生を何よりも豊かにする力を持つ反面、人生に大きなダメージを与える可能性ももつ物である。
特に大人になって自立してから人間関係で大きくつまずかないスキルを、大人になるまでに身につけておくことがものすごく重要なのである。
すごく上手じゃなくてもいいが、大ダメージを受けないスキルやタフさは僕からしたら必須能力である。
その能力はどうやったら身につくのか。
経験と場数しかない。
教師にも保護者にも見守られ、失敗しても大抵のことは取り返しがつく子どものうちに、できるだけ色々な人と関わって経験値を上げておくことには、何物にも変えられない価値がある。
地域によって色味の偏りはあるとはいえ、たまたまその地域に住んでいる色々な人が集まってくる公立小中学校は、最も効率よくそんな経験を積める場である。
授業がどうとか教師がどうとか言う以前に、行くだけで大きな価値があるのである。
僕達教師としては、楽しい時間を過ごしながらその経験を積んでいけるように、少なくとも、大きすぎる心のダメージを受けたり学校に来れなくなったりすることが無いように場をマネジメントすることが最大の仕事である。
今の学校現場では、いかに上手く集団として子ども達を管理できるかどうかが力量みたいになっている節があるが、僕は教師や学校が原因の不登校を1人も出さないことが何よりも重要だと思って仕事をしてきた。
1人もである。
公立教育の最大の価値がここにあるからである。
②公立の持つ可能性
次に、最近気づき始めた公立教育の持つ可能性についてである。
公立というと、お金がなくて、大胆なこともしにくいという印象があるかもしれない。
僕もそう思っていた。
校舎など目に見える設備の綺麗さを比べると、私立にその辺りはかなわないように見える。
しかし、そうでもないかもしれないと最近思い始めたのだ。
公立は税金で賄われるという特性上、無駄遣いは許されない。
そのため、とりあえず各校に配られる基本の予算はギリギリ設定である。
しかし、意味ある活動には結構あれこれプラスでお金が降りてくるのだ。
今回のコロナ関係で臨時でバンバン降りてくるお金も正直すごい額だった。
とにもかくにも、市民に説明がつく意味があるかどうかが大切なのである。
むしろ私立に比べて儲ける必要は無いので、意味ある活動と認めてもらえればそれだけで降りてくるお金も多い。
そのためにはこちらの説明や書類の提出が必要になるが、それは当然のことである。
ちゃんと調べてないから知らないだけで、もしくは面倒くさがって申請していないだけで、使えるお金は結構ありそうだと最近思っている。
また、動きの大胆さについても見方が変わってきた。
今年度、外国語の授業の一環で、姉妹都市の小学校とオンライン交流をすることになった。
この案を思いついたときに、とりあえず市教委に連絡したのだが、すぐに市役所の担当の課に繋いでくれて、その担当の課の方もすぐに相手先を見つけてきてくれた。
そのスピード感と手厚いサポートに驚いた。
もちろん関わってくださっている方々の個の力もあるのだが、組織の力を感じたのである。
そもそも姉妹都市という制度自体が政治的なコネクション。
さらに市内で以前に似た取り組みが行われており、その蓄積があった。
それらの要素が生んだこのスピード感。
さらに、意味あることには損得をいとわずサポートしてくれる体質。
自力や私立でこれをしようと思ったらきっと大変なことである。
この経験で、公立の新たなメリットを見た。
県や市の政治的な力を使うことができ、さらに意味があるかだけに拘って儲けを気にせず動くことができる。
あれこれ調べてみて、どんどん管理職や行政に相談してみたら、思っているより大胆なことを、思っているより簡単にできるかもしれないなと今思っている。