公立教育の価値を高める
僕の人生、このまま教師という仕事を続けていいものか。
教師になって数年働いた頃に考えたことである。
何となく良いとは思っていたものの、はっきりとした目的をもって教師になったわけではなく、さらにあの劣悪な環境・待遇が待っていたわけなので、どこかでこう感じるのはある意味当然のことであった。
続けるにしても辞めるにしても人生をかけた選択。
答えを出すためには、
「自分はどんな時に幸せなのか」
という根本的なことを一度じっくりと考える必要があると感じた。
僕にとって幸せな時間・・・
まず家族や友達と楽しく過ごす時間は幸せだが、それは完全にプライベートで達成できることである。
問題は次である。
次の「幸せな時間」が教師という仕事に大きく関わっているなら、僕にとって幸せなことだと思ったのだ。
とにもかくにもお金持ちになってすごく良い物を身につけたいとは思わない。
とにもかくにも世界の色んなところに行ってみたいとも思わない。
とにもかくにものんびり過ごしたいとも思わない。
僕にとって幸せな時間は
「人のすごい能力」に触れている時
だと判明した。
歌がめちゃくちゃ上手い人の歌を聞いている時。
絵がめちゃくちゃ上手い人の絵を見ている時。
めちゃくちゃ賢い人・おもしろい人の話を聞いている時。
そんな時、僕はすごくワクワクするし、まさに幸せである。
となると、教師という仕事がその幸せな時間に大きく関わっているかどうか。
答えはYes。
まさに、人の能力を発揮させるために働く仕事である。
しかし、人の能力を発揮させるための仕事は他にもたくさんある。
塾をはじめ、各種習い事だってそうである。相談機関のような物だってそうである。
もう一歩踏み込んで、どのように人の能力を発揮させることに関わっていきたいか。
そう考えた時、僕にとって大切なのは、多様性・数だということが分かった。
別にどんな能力かにはこだわらない。
ただ、1人でも多くの人の能力をちゃんと発揮させたい。
特定の能力を伸ばすことにフォーカスすることや、一部の人を対象とすること(例えばお金がある人しか利用できない機関など)は、僕が望むところではない。
そうなると、教師という仕事は当てはまっているか。
答えはYes。
学校、とくに公立学校はまさにぴったりである。
能力を発揮するための環境が整っている人は、そちらに任せておいてもいい。
多様性・数が大切なら、特に僕が目を向けるべきは、環境が悪いために、そのまま放っておけば発揮されずにつぶれてしまうかもしれない能力を拾い上げることである。
ここまでくると、教師という仕事を続けることに納得できた。
環境や待遇に不満はあるが、もっと高い次元で自分の幸せとマッチしているのだから、幸せなことである。
むしろ何となく決めたのによくここまでマッチしてたなという感じである。
しかし、公立教師であっても、直接関わることができる子どもの数は知れている。
学級担任として1年間みっちり40人に関わったとしても、40年かけてやっと1600人である。
しかもみっちり関われるのはたった1年間。
大きな夢を見るなら、日本社会全体がもっと教育に価値をおき、よりたくさんの能力がちゃんと発揮されるような環境が広がっていけば、より幸せである。
今の日本社会は教育を軽視し過ぎている。
僕からしたら目先・小手先の利益のために、成果が出るのに時間がかかる教育が後回しにされているという感じである。
その成果というのはすごく貴重で魅力的な物なのに!
でも、その価値に僕が気づいたのであれば、それを広めていくのが僕の使命ではないか。
今は1人の公立小学校の教師として、目の前の子どもや保護者にとって価値ある教育を提供できるように全力を尽くす。
そしてその先に、日本社会全体の教育の価値・特に公立教育の価値が高まっていくことを目指す。
どうすればそこに近づくことができるのか。
それを考えながら働くことが、当面の僕のやるべきことだと思うし、そう思うと、納得して誇りをもって今は教師という仕事ができている。