ポッター教育研究所

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「楽しい」という感情の価値

僕は、子どもの「楽しい」という感情にかなりの価値を置いている。

 

そして、自分のそこへのこだわりは、他の教職員や親と関わる中で、どんどん浮き彫りになっていった。

 

世間とのギャップを感じるほどである。

 

今回は、どうして僕が「楽しい」という感情にそこまでこだわるのかを3つに分けて紹介する。

 

 

 

①楽しくないと結局伸びない

まずは、能力的な話である。

 

何事でも、大きく力を伸ばしていくためには、ある程度の「期間」が必要なこと、そして「勝負の時期」というものがあるということがポイントである。

 

ある程度の「期間」やり続け、そして「勝負の時期」までモチベーションを保っておくためには、「楽しさ」を感じられることが不可欠なのだ。

 

途中で息切れしてしまったり、嫌いになってしまったりすると、どんなにスタートダッシュが速かったとしても、力を大きく伸ばしていくことはできない。

 

 

習い事や独学のようなことにも当てはまると思うが、今回は例として勉強に絞る。

 

 

 

 

勉強であれば、大きく力を伸ばすための勝負の時期は、中学高校時代である。

 

この中学高校(特に高校)の時期に、自ら進んで勉強できるメンタリティがないと、伸びは知れている。

 

幼稚園保育園時代や小学校時代に、子どもの感情を置いてけぼりにして早期教育に躍起になっている親や、自分の担当する1年だけのことを考えて、やたらとスパルタのような指導をしている教師を見ると、短絡的だな・・・と思ってしまう。

 

勉強面で大きく力を伸ばすための「勝負の時期」は、もっと先にあるのだ。

 

もちろん幼少期に、最低限の基礎力をつけておくことは大切だが、嫌いになってしまったら、それこそ「終わり」である。

 

 

漢字のお直しを何回もさせられたのが嫌で、漢字を学ぶことが嫌いになりました。

とか

運動会の練習が嫌で運動が嫌いになりました。

とかは、小学校でよくある最悪の例である。

 

最低限以上のものを無理に求めて、将来の可能性を失うという本末転倒である。

 

 

 

1年生を担任した時に、

「先生、宿題はまだ出ないんですか?」

と目をキラキラさせて言われた時には衝撃を受けた。

 

全員が勉強を楽しみにして、やる気に満ち溢れていた。

 

全員に、将来大きく力を伸ばしていくチャンスが残されていた。

 

ということは逆に考えると、学校がどこかのタイミングで、子ども達のやる気を奪っているんだなと痛感した。

 

とにかくこの1年、全ての勉強を、出来るだけ好きなまま2年生に上げることが僕の仕事だと感じた。

 

基礎力は全員につけた上で、さらに好きなまま上げるというのは、それはプロの技である。

 

しかし、小学校教師の仕事はそこにあると思う。

 

高く高く目に見える力をつけていくというよりは、基礎力をつけたり、楽しいと思えたりするような土台を広げていくこと。

 

 

子ども達は、自分の前を巣立っていった後も、ずっと勉強を続けていくのである。

 

そして、「勝負の時期」はもっと先にあり、その時に勝負できるメンタルを持っていないと大きく力を伸ばしていくことはできないのである。

 

 

 

ちなみに僕は3兄弟だが、高校の頃、3人誰も人から勉強しろなどと言われなかった。

 

100%ではないにしても、50%以上、勉強が楽しかったのである。

 

だから誰の受験期も、家には全くピリピリした感じもなかった。

 

人からやいやい言われて勉強している人や、勉強が苦行でしかない人が、楽しみながらやっている人に勝てるわけがない。

 

大学入試レベルの勉強で、自分にとって高い目標に立ち向かうならなおさらである。

 

大学入試という一つの「勝負の時期」に、ちゃんと勝負できるメンタルを保てるように育ててくれた、親やこれまでの先生方に感謝である。

 

 

 

2 学級経営の柱

二つ目は、学級経営と関わる話である。

 

「楽しい」ということは、やはり子どもにとって何よりの魅力である。

 

楽しいことのためなら子どもはがんばれる。

 

小学校で働いていると、「乗り越えさせること」や「我慢させること」がやたらと好きな教師をたくさん見るが、それと同じかそれ以上の「楽しさ」を提供できていないなら、子どもにそれを強いる権利はないと思っている。

 

もちろん何かを乗り越える体験や、我慢することも大切な勉強なのだが、楽しいことがあるからがんばれるのだ。

 

 

授業もそう。

楽しくない授業を続けながら、子ども達に行儀よくしろと要求するのはお門違い。

 

楽しい時間が少なくとも半分以上あるから、そうでない時があったとしても踏ん張ってくれという「交渉」が成立する。

 

 

不登校関係もそう。

毎度言っているように、不登校には様々な要因があり得るというのは前提だが、基本的には「楽しいかどうか」が最後の決め手だと思っている。

 

学校が楽しくて仕方なければ来るのである。

 

ダラダラすることにもゲームをすることにも勝る楽しみが学校にあれば来るはずなのだ。

 

学校(教師)が嫌なことをしないというのはもちろんだが、そのレベルの話ではなく、学校生活の中に、その子にとって楽しくて仕方がない時間を作ってやれれば、全員学校に来ると思うのである。

 

その次元の話になると、「学校で勉強するより家でやった方が効率が・・・」とか、「今の時代に学校にわざわざ行く意味は・・・」とかいうクールなことは、子どもにとってどうでもいいことになる。

 

楽しいことがあるから行くという単純な動機である。

 

 

楽しいことがあるから、子どもはがんばれる。

 

そして、学級担任としては、それこそが最大の武器である。

 

楽しい時間があるからがんばってくれる。

楽しい時間があるから我慢してくれる。

楽しい時間があるから学校に来てくれる。

 

 

気持ちよく学級経営をしていくためにも、学級担任として自分の身を守るためにも、子ども達に「楽しい」時間を提供するために、僕はかなりのエネルギーを使っている。

 

 

 

3 人生においての「楽しい」の価値

そして最後はこれである。

 

お金を稼ぐ方法も多様で、飽食の時代である今の日本で、自分にとって「楽しい」ことは何なのかを自分で考え、自分で自分の「楽しい」時間をつくる力をつけることは、幸せな人生を送るためのポイントになると思うのだ。

 

義務教育が終わった時や、大人になってから、そこを考えられない人が人生の迷子になると思う。

 

 

小学校は、それを学ぶスタートの場所。

 

僕達教師にできることは、毎日の経験を生かしながら、どのように考え、どのように行動すれば自分にとって「楽しい」時間を作れるのかを、考える機会を与えることである。

 

 

学校生活の中では、楽しくないことも起こる。必要に応じて、何が原因でそうなってしまったのか考えさせる。

 

そしてもっと大切なのは、楽しい時間を経験させて、何が原因でそうなったのかを考えさせることである。

 

楽しい時間には、教師が与えてくれたもの以外にも、たくさんの要因が詰まっている。

 

自分はどういう言葉を出すべきなのか、どう行動すべきなのか。

 

そういったことを考えられるようになると、環境に関わらず、「楽しい」時間をつくり出せる人になると思うのだ。

 

僕は子ども達に、来年度、担任が変わっても、クラスのメンバーが変わっても、自分で「楽しい」時間をつくれる人になってほしいと伝えている。

 

小学校の低学年から高学年までをかけて、だんだんその力をつけ、だんだん教師の介入が無くてもそういったことを考えて動ける人になって欲しいと思っている。

 

そのために僕達は、まず楽しい時間を提供する必要がある。

 

楽しい時間をたくさん経験して考える中で、自分達で「楽しい」時間をつくり出せる人になっていくと思う。