ポッター教育研究所

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日本は「優等生」へのケアが足りていない

僕は、以前の記事で「全員を特別扱い」することにこだわりをもっているということを書いた。

 

この全員の中には、もちろん「優等生」と言われるような子ども達も含まれている。

 

僕は、日本の学校は、いや日本の社会全体は、「優等生」へのケアが足りていないと感じている。

 

今回は「優等生」へのケアが足りていないことがなぜ問題だと思うのか、そしてどういうケアが必要だと思っているのかを書いていこうと思う。

 

 

 

まずどうして問題だと思うのか。

 

いくつか理由はあるのだが、一番は、いわゆる「優等生」的にがんばってきた人達が不幸な目に遭っているのを度々目にするからである。

 

最近で言うと、芸能界でもそういうことが立て続けにあり、ショックを受けた人も多いはずだ。

僕もその一人である。

 

 

芸能界だけでなく、自分の身の回りでも辛い思いをしている「優等生」的な人を見ることはあり、その度に悔しい気持ちになる。

 

怠けていたり、人に嫌なことをしている人が辛い目に遭っているのなら自業自得とも思うのだが、するべきことをきちんとしている人が辛い目に遭うのは見ているだけのこちらも悔しいのである。

 

 

なぜそんなことになるのかを考えた。

 

すると、やはり日本の社会全体の教育的な価値観がそれと関わっているように思えてきた。

 

 

日本の社会は、周りに迷惑をかけず、自分のやるべきことをきちんとできる「優等生」になることに、かなりの価値を置いている。

 

それ自体はいいことなのだ。

 

問題は、優等生になる(する)ための教育は充実しまくっているのだが、優等生になった後(元々そういう子も含めて)の教育が抜け落ちていることである。

 

 

そもそも僕はここまで敢えて優等生という言葉を使ってきたが、優等生という言葉自体が好きじゃない。

 

優等生と言うと、人間として総合的に優れている人を表すかのような言葉だが、日本で言う優等生とは、基本的には集団生活(学校生活)が得意という程度のことである。

勉強が得意という要素も少しはあるかもしれない。

でもその程度なのである。

 

人間誰しも得意不得意はある。

それは「優等生」と言われる子達も同じである。

 

しかし、日本で超重視されている「上手く集団生活を送る」ということが得意なので、その子達の苦手なことが社会(特に学校)では取り上げられにくいのだ。

 

それでその子達が幸せな人生を送っていけるのなら問題はない。

 

しかし、現実に苦しい思いをしている人(子)もたくさんいるではないか。

 

それは優等生であることが問題なのではない。その人の苦手に対して、ちゃんとケア(教育)がなされていないことが問題なのだ。

 

 

 

教師であれば振り返って欲しい。

 

いわゆる手のかかる子ばかりに指導やアドバイスが偏りすぎていないか。

いわゆる手のかからない子の苦手なことを把握できているか。

「優等生」に対しての関わりが褒めるだけになっていないか。

自分が学級や授業をうまく回していくために必要な(都合の良い)指導だけになっていないか。

 

 

教師は優等生を含む「全員」をよく見て、苦手なことを改善していくために必要な指導・アドバイスをしてやらなければならない。

 

誰にでも得意不得意はあるのだ。

 

 

 

 

では、具体的にどんなケア(教育)が必要なのか。

 

もちろん「優等生」と一括りにしても色々な子がいるので、するべきケアも子どもによるのだが、よくある例を2つ取り上げる。

 

 

まず重要だと思うのは、「相談する力」をつけるということである。

 

辛い目に遭っている「優等生」が誰にも相談できずにため込んで、最終的に爆発してしまうというのは一番避けたい結末である。

 

僕はこれも、日本の教育の弱点が原因だと思っている。

 

「優等生」になること、「優等生」であることを目指すあまり、「優等生」への親や教師の注意自体が薄くなっていること。

また、「優等生」に向けられる周囲からの期待は大きく、その期待を裏切らないために辛いと言わず頑張ろうとしてしまうこと。

 

僕は相談することに苦手があると感じる子に対しては、とにかく無理してないか・気になることはないか等、細かく話を聞くようにしている。

 

悩みがある度にベラベラ喋ってくれるとは思っていないが、数を打っておけばチャンスは増える。

 

そして、もし悩みを打ち明けてくれた時に、その子にとって納得のいくサポートやアドバイスができたら、その子は相談することに意味を見出してくれると思うのだ。

 

「相談する力」が足りていなかったために辛い思いをする優等生は多いが、それは教育の責任である。

 

 

もう1つは、「多くのことが見えすぎる」ことに対する対処法を教えてやるということである。

 

特に中学生までくらいの発達の個人差が大きい時期に「優等生」である子は、同じ年齢の子に比べて精神面の発達が早いという場合も多い。

 

そういった子達は発達が早くて、有利で快適なことばかりかといえばそうではない。

 

他の子達がその時期に気にならないことが気になったり、そんな周りの友達にイラだったりしてしまうのだ。

 

また、シンプルに精神的に気の合う友達ができにくかったりする。

 

そんなことを感じた時にも僕は話をする。なんせ精神年齢は高いので大人の話は通用する。

 

あなたの得意なことはこれ。でも他の子は違うということ。他の子に悪気があるわけではないということ。そんな違和感はこれからも感じる可能性があるということ。その上で、納得いかなかったり我慢できないことがあったりしたらいつでも僕のところに来てねということ。

 

 

大人なら経験がある人も多いと思うが、他の人が感じていないことを自分だけ感じてしまう・分かっていないことを自分だけ分かってしまうというのは、けっこう辛いこともある。

 

その周りとの感覚のズレの仕組みを説明して、必要に応じて流すなり信頼できる人に相談するなりして自分の心を納得させる術を教えてやらなければならない。

 

自分は謎に誰からも理解してもらえないと孤独を感じて苦しんでいる優等生がいるなら、それは教育の責任である。

 

 

 

2つのことを取り上げたが、これはただの一例に過ぎない。

 

「優等生」にも苦手はあるのだ。

 

社会全体、特に親や教師は、子どもが「優等生」だと感じる時ほど、少し意識して、その子の苦手は何か、困っていることはないか、将来困りそうなことはないかを見てやる必要があると思う。