ポッター教育研究所

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教師は「嫌われ役」になる必要があるか

「嫌われ役」という言葉をしばしば耳にする。

 

教師は時に「嫌われ役」になる必要があるのだろうか。

 

 

 

 

僕の答えとしては、完全にNO。

 

そもそもネーミングがやばい。

 

子どもの人格を育てることが仕事の教師が「嫌われ」ていたら話にならない。

 

誰が嫌いな人から人格を育てられたいのか。

 

 

まぁしかしこの場合で言う「嫌われ」という言葉は比喩的に使われていて、実際のところは単純に「厳しく指導すること」くらいを指していることが多いとは思う。

 

 

 

言葉のチョイスの問題は置いておくとして、それでも僕は実際に、子どもへの指導(特に厳しい指導)が、子どもと「対立するもの」だという認識を学校現場で感じることがある。

 

 

今回伝えたいのは、この認識自体が、すごくコスパが悪いと思うということなのだ。

 

 

 

日々の小さな指導の瞬間(教室で暴れるなとか、授業中に私語をするなとか)だけを切り取ると、その指導は子どもと対立したり、子どもを縛ったりするものに見える。

 

しかし、その指導の先にある大きな目標を考えると、教師も子どももたいていは同じものを目指しているはずなのだ。

 

賢くなりたいとか、友達と仲良くしたいとか、楽しい思い出をつくりたいとか、クラスを居心地の良い場所にしたいとかである。

 

このレベルでは、同じ目標に向かって、同じ方を向いて進んでいるんだという意識づけや認識確認を子どもと丁寧に行うことは、けっこう重要なことだと思うのである。

 

子どもとの信頼関係が崩れてしまったり学級崩壊を起こしてしまったりしている時には、ここが抜けていることが多い。

 

 

 

小さなことを指導する時にいちいちこんな話はしないが、その小さなことが頻繁に起こるとか、重大な出来事があった時とかには、そこを意識しているかいないかで、子どもに投げかける言葉が変わってくる。

 

 

例えばその指導が子どもと対立するものという認識だと、出てくる言葉は「やめろ・するな・こちらはこう思う」というような、子どもにストップをかけたりこちらの思いを伝えたりする内容に終始するだろう。

 

 

その指導が子どもと同じ目標に進むためのものという認識だと「目指すものはこれなのか・なぜこの結果なのか・これからどうするべきか」というような、子どもの進む方向を変えさせる内容になるだろう。さらには子どもがどう考えているか実際に聞くような機会もつくるだろう。

 

 

 

結局言いたいことは同じだというように感じるかもしれないが、この2つの違いは大きい。

 

 

子どもが、自分達と考えていることや目指しているものが違う人からの言葉だと感じるか、自分達と同じものを目指している人からの言葉だと感じるかでは、受け取り方が変わってくる。

 

 

僕達だって同じだ。

管理職や上司が、自分と全く違うことを考え目指していると感じたら、聞く気が無くなったり反発心を持ったりするだろう。

 

そうなると、色々と能率が下がるのは自明。

 

 

 

僕達も、子ども達と対立の立場に立ってはいけない。

 

なにせ、目指しているものは同じなのである。

 

同じものを目指すための「厳しい指導」によって反発されるのはお門違いであるし、そうなると色々な能率ががくんと落ちる。

 

もし反発があるなら、子どもとの間に何か認識のズレがあるのか、こちらが言っていることがおかしいのか等、教師側が自分を振り返る必要がある。

 

 

それでも毎日、ただ子どもにストップをかけるような小さな指導(教室で暴れるなとか、授業中に私語をするなとか)をくり返さないといけないのは、子どもはミスをするからである。

 

でもそれは、あくまで大目標は同じだという認識確認ができている上での小さな指導。

 

大きなところでは、同じものを目指しているのだ。

 

 

 

 

何度もくり返すが、僕達教師は、子どもと対立の立場に立ってはいけない。

 

同じ目標に向かって同じ方向を向き、その方向に向かって背中を押す立場に立たないといけない。

 

その立場にいてくれる人だからこそ信頼し、その人の言葉だからこそ子どもは受け取ってくれると思うのだ。

 

そして子どもは、その立場にいる人なのかどうかを鋭く見極める。

 

「嫌われて」いる場合ではないのだ。